南米の焼肉アサド/参与観察的地域計画!

2019年の春過ぎ頃から、私はアルゼンチンの”サンマルティン デ ロスアンデス(以下、SMA)”という首都ブエノスアイレスからバスで南に24時間行くと辿り着ける地域に住んでいた。

SMAはスノーリゾート地で、画像検索すると少し調子の良さそうなリゾート施設がずらりと出てくる。私が住んでいたのは、その中でもリゾート施設にてブルーカラーの仕事を行う人たちが中心になって住んでいる”バリオカンテラ地区”という場所だった。SMAは山の谷あいに位置し、その中でも平坦な部分を中心に開発してできたいわば観光地のため、物価も土地もとても高い。その中でも、バリオカンテラ地区は山の斜面地に位置し、スクワット的に住む形で居住する方も現れ、市街地化していった場所だった。

バリオカンテラは、アルゼンチンに位置するが最初に居住し始めたのは1970年代のチリ出身の家族である。チリでは、1970年の大統領選挙で民主的に社会主義政権が実現するのだが、その後様々な経済政策等が失敗に終わった結果ハイパーインフレを招き、隣国に移住する人が続出した。バリオカンテラは、チリまで現在ではバスで3時間程度で行ける場所である。当時、観光地としてうまく行きはじめたこともあり、SMAで働きたいと考えたチリからの移住者がスクワット的な形で住み始めた。彼らが住み始めたことを皮切りに、様々な人が住みはじめた。今では、チリ、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、加えてチリの少数民族であるマプーチェも居住している。

そのような経緯と、スクワット的に発生した市街地ということもあり、バリオカンテラには複雑な相容れないコミュニティがある。
私が滞在したのは、バリオカンテラが急斜面の小さな集落となり、土砂災害のリスク等に対して地域改善を行うプロジェクトに関する仕事を行うためでもあった。そのプロジェクトは、土砂災害リスクの高い中でコミュニティを分断するような大規模な地域改善ではなく、都市の鍼治療的な改善を地域住民らの自助努力に頼りながら行うことを目指していた。そんなことで、地域住民の相容れなさを理解した上でどこに鍼を打つと効果的な自助努力が行われるのかというのを決めるため(もちろん都市・建築的な観点からもどこに鍼を打つのかを検討する)コミュニティの実態を理解する必要があった。居住し始めて1カ月ほど経ったころ、ほぼ毎週くらいの勢いで出身地域に関わらずアサドが行われていることに気づき、それを切り口に地域の相容れないコミュニティの相関を調査するということにした。調査という体にすれば、おいしいアサドがたくさん食べれるし、地域のこともかなりわかり、一度で二度おいしいし嬉しい。

最初の方は、バリオカンテラの一部の方が自分のことをお出迎えしてくれ、週に一回は確実にアサドにたどり着くことができた。しかし次第に、お出迎えアサドフィーバーは下火になっていき、なかなかアサドにたどり着くことが難しくなり始めた。それもそのはずで、アサドは本来親しい間柄でしか行われず、最初は外部の人として気を使ってもらいアサドに誘ってもらっていたが、バリオカンテラの方たちも自分の存在に慣れてきて、だんだん誘ってもらえなくなってきた。
このままでは、調査が遂行できないと思い、公民館で日本語教室を無料で行いはじめた。無料で日本語を教えるから参加してくれる人はたまにアサドに誘ってねという下心満載のポスターを配布し日本語教室を行い始めた。
それと並行して、純粋にできる限り多くの人と関わらないと話が進まないと思い、毎日集落を一周挨拶しながら歩くことにした。
夕方に歩くと、大抵現場作業帰りのあんちゃんにつかまり、フェルネットコークと呼ばれるアルゼンチンの国民的カクテル(養命酒のコーラ割りのような味)を飲まさる。フェルネットコークは、2リットルのペットボトルを切り欠いたオリジナルコップになみなみ注がれており、仕事終わりに皆で飲みまわすのが現地流らしい。何かをシェアするのは仲間内だけで行われるというのが常で、酒をみんなで飲みまわすのは仲間であることを認識する行為の最右翼である。フェルネットコークを差し出された以上、断るとせっかくの開いてくれた心の扉が閉じるような気がしたし、アサドへも遠ざかるような気がした。何より味がシンプルに好きだったのでありがたく差し出された分は貰っていた。下戸な自分はすぐにべろべろになってしまい、彼らにつかまると夜作業ができなくなるので、飲みたい日だけ夕方出歩くことにした。
日本語教室、散歩に加え、集落の中にキオスクが3店舗あるので、毎日3店舗のうちのどこかで何かをかうようにした。なかなか道を歩いている人や家の中にいる人とゼロから関係を持つことは難しいが、買い物を介せば喋るきっかけが簡単にでき、相手も何か買ってもらえてうれしい。結果的にそのような足搔きのおかげでアサドにたどりつける回数は増えたのだが、それ以上にアサドにたどり着くまでのプロセスにかなりの発見があった。

当時はなりふり構わずやっていたが、後に、地域の方の日常生活に溶け込み、流れに身を任せ、肌感覚的に彼らのことを理解するやり方は”参与観察”という手法であることを、文化人類学者の小川やさかさんの著書”チョンキンマンションのボスは知っている”を読んで知った。
参与観察を介した地域計画に対して可能性を感じているし、何より楽しく、今後も続けていきたいと思う。そのやり方に名前があった方がいいだろうと思い”参与観察的地域計画!”と名付けることにした。

建築的な視点や都市的な視点で地域をどうにかしていこうと考えると、多かれ少なかれその場所に対して大きな変化を与え、時にはそれが”暴力的”と揶揄されることがある。その暴力性をどう地域に引き受けてもらうかを考えるときに、アンケート調査やマーケット調査といった”作る人と使う人”、ないしは”与える人と与えられる人”といった二項対立がはっきり分かれてしまい、なおかつ使い手が大雑把に分類され特殊解が排除されるようなやり方は、時には必要だがなるべくとりたくない。参与観察的地域計画!は汗水たらして地域に入り込み、一般解も特殊解も引き受けれるような可能性を持っていると思っている。

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